イキブロ

いっきの「生き方」探求ブログ。ライフハックメモ、カイゼン日記。そして初心なんかの恥ずかしいメッセージ。さあ、人生を再発見しよう。

2015年2月23日
by ikki
0 comments

iki0176|「会社員をする」ことこそが楽しい

自分が今の仕事をしているのはなぜか、ということを、自分の子供のような第三者に説明するのは難しい。形に残る仕事をしたいから建設、とか自分の手で何かを作りたいからSI、とかではない。

そうではなくて、「会社員こそが天職だ」と思うことがある。

業務を回す。
とにかく回す。その中でリズムを整え、作業のレベルを守り、日々の作業に意味を残していく。実現可能なペースを見極めて、日々のルーチンが破綻しないような、ぎりぎりの計画と中間目標をボトムアップしていく。

判断すること。行動の結果得られた“世界のゆらぎ”に対して、適切に意味を残す。
判断のハブになること。
みんなの判断に必要な情報の流通を司ること。

そういう精神活動そのものが、深く心地よい。

だから、その企業や業界が「人類社会に何を提供しているか」は、私には本当のところ、あまり興味がない。
弱者から搾り取るような仕事じゃないといいな、くらいのものだ。だからできたら、この能力そのものを一つの職種として世に確立して、色んな業界を渡り歩けたらいいのに、くらいのことを思うことがある。

そうだ。
「別にサラリーマンの楽しさ」というのは、社内政治だの、経費をごまかしてもうけることだの、社内恋愛や赤提灯だけではないのだ。

報連相とWBSとプロジェクト管理だけあれば、十分だ。より正しく上位目的を理解して、前工程の意図と後工程のニーズを推測して、あるべき「自分の作業」の質を高めていく。

前時代の遺物かもしれないけど


ただ、私が好きなこういった管理作業そのものは、別にお客さんに利益を与えていないし、近い将来ロボットに取って代わられるのかもしれない。職務経歴書に書いたって、大してかっこよくならない。そんな迷いはいつもある。

そんな一方で、たとえば『営業が仕事を放り込み、主力社員は職人気質で、新人が次々使い潰されていくような職場』に、そういう「整えるの好き」な人がはまると、不思議な安定をその場所に生み出す。と思っている。

仕事の楽しさ


仕事の楽しさというのは不思議です。
別にすごく好きだと言う訳では無い。年金がもらえるって言うならすぐにでもやめたっていい。
別に残業がしたいわけでもない。さっさと帰りたい。
そんな風に毎日疲れている。

ただ、取り組んでいることがあって、そこに美意識を込められるなら、それは楽しいとも思う。

「“会社員をする” ことこそが楽しい」と言ったら、君は僕を、犬だと笑うだろうか。

こんな記事も

2015年2月20日
by ikki
0 comments

iki0175|子供について、苦笑しながら見守ること

子育てしながら、「んっ?」と気になることって、時々あります。
やたらごろごろしてる、とか、食に興味がない、とか。気になるといえば気になるけど、私なりに「大らかでいよう」と思えることもあります。

やたらごろごろする。


テレビを床に寝て見る。漫画を床に寝そべって読む。

気になる人は気になるのだろうなあ、と思うのですが、自分自身もそうだったから、苦笑しつつ見守るしかない。
でも、親になった視線からすると、“だらしない”、とか “体力がないのかも?” という風にも見えてしまう。もしかすると “失礼な!” とか。

じゃあ、私はなんだってあの頃、あんなにごろごろしていたんだろう? と考えてみて思いついたことが一つありました。
あれは、「極度集中タイプ」なのです。

集中と脱力


集中すると、そのことに必要なこと以外のすべての筋肉を本能的に脱力させようとする。脱力させないと自分の中が落ち着かない。
だから、座っている姿勢よりも、最終的に寝っころがってしまうのですね。

集中というのは、脳の一カ所のやる気を高めるというよりは、不要な部分の活動を「鎮める」とか「遮断する」、という側面が強いので。
陶然となる、とか魅入られる、というイメージ。
だから、読んでいる本が面白くて集中すればするほど、ポカーンとしている感じで力が抜けてくる。

それを知っているから、お行儀悪く思えても、あまり強くは言えないんですよね。パラレルに色々なことをやらなきゃいけなくなるにつれて、立ち上がる動作がめんどくさくなって、段々立ったままでいようとするようになります。

ただ、寝っころがって本を読んでいると、だんだん足が手持ち無沙汰(足?)になってくるのか、足先でぶらぶらと余計なことを始めるのですよね。そこにあったものをいじったりとか。
それは色々危ないので注意しています。

食に執着がない


ご飯を食べていて、何か面白いことが目に入ったり、思いついたりすると、もうそっちに夢中。どんなに好きなおかずでも食べ進めるのを忘れていたりする。
「お行儀がよくないなあ……」を通り越して、「具合がわるいのかも?」という心配を、大人になった親はしてしまうかもしれません。

フィクションとしての食いしん坊


キャラクター造形を伝える時に、「こどもっぽい」ことのテンプレートとして、「食いしん坊」って属性をあてることがよくありますよね。アニメとか漫画とか。
ドラゴンボールの孫悟空でもよいですし、サザエさんのカツオが食い意地がはってる、でもよいですし、トッキュウレッドでも、何でもいいんですが。
で、それがつい先入観として刷り込まれてしまう。

なんですけど、自分の子供の頃を思い返したら、そんなに食べることって重要じゃなかったです。ゲームしてたら、ゲームの「いいところ」が終わってセーブしてから食事に行きたかったし(ゆるされてた)、その頃の感覚からしたら、食事ってそれなりに「めんどくさいこと」でもあったはずなんですよね。私自身に限って言えば、文化系だったこともあって朝練もなかったし、高校生くらいまで食に執着なかったです。
もちろん、美味しいもの食べれば美味しかったんですけど……。

だから、食事を全部食べきらなかったり、集中して食べられなくて途中から遊び始めてしまっても、最近は割とゆるく構えています。
(2~3歳くらいのころに、しつけとしては教えていますが、あまり身に付かなかったですね。学校や園ではちゃんと座って食べているらしいですが)

まあ、片付かないので、適当なタイミングで呼び戻して、脇について残りをダッシュで食べさせることはあります(笑)

なんでもOKではないけれど


もちろん、なんでも子供のすることなら放っておいてOK、ということではないのでしょうが、「これはむしろ子供期こその特徴で、段々とおさまってくるんだよな」と思えれば、そのことはスルーできます。子育てしていると色々と気になることは多いので、スルーできることはスルーできる方が、他のことについて考えていられますよね。

そんな、「人によっては気になるかも?」なお話でした。

2015年2月19日
by ikki
0 comments

iki0174|不安で気が進まないタスク

先行きが気になって、恐怖の妄想ばかりはかどって、なかなか手が付けられないタスクがある。
そういうのは、1つとりかかってしまうと、案外一気に楽になったりするのだけど、それはやった後だから言えるのであって、始めるまでは恐ろしく気が重い。

一つ目のタスクの、その先の展開が読めない。
タスクの成り行きが自分の影響力下になく、他人の反応や運命に委ねられている。

そんなことを効率的に進めるのは難しい。

私の中の悲観回路


この傾向を強引に抑えるのは難しい。
悲観にはもともと、生物的に存在意義がある。想像力だって、やる気の出なさだって。
だから、これらの特徴は、長短両面ある性格の一形態に過ぎない。

なので、この特徴に振り回されず、部分部分で抑えたい。それに何をするか、といったら「自分を正しく見つめる」ということになるのだと思う。

自分の感情を見つめる。客観化する


「ああ、自分は今、これをやりたくないんだな。先行きが読めなくて、不安になっているんだな」
「その不安にとらわれていたけど、これはそういう脳の機能で、反射的に信号を上げてくる、特定の脳の機能(部位)があるんだな」
そういう風に考える。

これは以前に紹介した、認知療法の手法に似たところがある。(iki0152|自分の思考の偏りに気付いてみよう![書評]《マイナス思考と上手につきあう 認知療法トレーニング・ブック 竹田 伸也》

これは単にテクニックだと言う事だけではなく、脳の実態を比喩的に示してもいる。

脳には色々な部位と担当細胞があり、空気多数決で意識を作っている。だから、その時々に、声の大きい人がいると、意識や主体性が、いつの間にかその色に染まってしまう。

恐怖が人生や未知にはある。


脳にはそんな、“悲観”といった機能がある。
そして同時に、この世界には恐怖や未知という側面がある。
先行きが気になって、恐怖のあまり妄想ばかりはかどって、何も手を付けられないことというのは、なくせない。それは想定しておこう。

一生かけて、その時々でやり続けなければならない。
歪みなく、ものを見ること。それができる精神状態を作ること。

感情や思念を、中心認知から切り離していく。

slooProImg_20150218083058.jpg

2015年2月18日
by ikki
0 comments

iki0173|自分の子供にこんなことができるとは。

ペンダントライトの常夜灯が切れた。

写真:ペンダントライト
常夜灯(オレンジ)を変えるには、まず蛍光灯全体を包んでいる、カバーの下半分を取り外さなければならない。
「これ絶対ほこり降ってくるよな……」
と、ぶつくさ言いながら、仕方なく豆球を変えようとしていると、息子君が「あっ、じゃあ」といいつつ、ハンディワイパーをテレビの横から持ってきてくれた。

……、すげえ! と、驚愕!

こんな気の利か方、俺、年齢に関係なくゼッタイできない。
自分の子にこんなことができるとはね。
その予想外の成長に、ちょっとあっけにとられた、というか、今何を見たのか、実感を持って理解できなかった。

  • 「ほこりが落ちるのが困るなら(遠回りなようでも)先にほこりを掃除すればいいんじゃない?」という発想
  • それに適した道具を思いつけたこと。
  • 誰かが困っているのに気を止めて、すっと手を差し出すこと

そのどれも私にはないなあ。大したもんだ。
このまま、伸びていってくれ。

とりあえず、豆球を換えたところで、妻さんに報告にいった。息子君は、自分のしたことを理解していないみたいだったけど、妻さんはもちろん理解した。

2015年2月17日
by ikki
0 comments

iki0172|熱が出た

熱が出て、今日は1日寝込んでいた。

解熱剤が効いてきて、多少は思考が整理できるようになったので、これを書いてみた。
(解熱剤も医師の処方だよ!)
『熱は免疫反応の証し!』みたいな考え方は私にもあるけど、38℃以上は別世界という感じ。
思考が断片化して、ソワソワ落ち着かなくて、訳の分からない細かい思念が次々浮かぶ。ちょっと、疲れる。

昨日は職場の送別会があって、できれは出席したかったのだけど、結局ぎりぎりまで様子を見て、「今は大丈夫でも、アルコール入れて睡眠削って、としてたら、回復する自信はないな」と思って頭下げてドタキャンしてきた。

子育てしてて、歳もとって、自分の体力は過信できなくなった。

そしたら、翌朝熱は下がるどころか、結果上がってしまった。
両方の未来を見てから選ぶことはできない。
熱感って、気の持ちようで辛さが変わるし、昨日の段階では37.6℃とかそれくらいだったから、迷いがあった。
あそこで「休む」ことにした自分をほめておきたい。

次も同じ判断ができるかな、ということでこれを書いている。

昨日朝、マロさんにこんなツイートをしていた。


やれやれ。起こるもんなんだよ。

今はブログを毎日更新にチャレンジしていたから、途切れさせたくない悪あがき、というのもこれを書いている理由の一つ。

で、習慣化を目指した計画で『連続何日』というのは、確かに尊いのだけど、そして脳の回路変更にはその方がいいのだとしても、やっぱり病気とか怪我とかの不測の事態というのは、起こるものなのだな、ということも思う。

その時、最初に見た美しい“未来図”に引きずられないようにしたい。
まあ、今回はこうやって書いているわけだけどさ。

そうだな、予測するだけじゃなく、プランBを考えるところまでやればよかったか。

2015年2月16日
by ikki
0 comments

iki0171|アウトライナーでブログのネタを考える

切り出しが簡単な情報ではなく、自分自身でもつかみかねている考えを、ブログにしてみようと考えたのはなんでだったか。
その時、アウトライナーでブログのネタを考えたら、けっこ据わりがよくて、頭が気持ちよくなった。

iki0166|ブログを書くと、反応が気になってしまう
iki0167|ブログ更新の間が空いてしまったら
iki0168|もっと小さなエントリでブログを書くべきかもしれない。
この3つのアイデアはほぼ同時に思い浮かんでいたし、緩やかではあるけど因果関係もあって、もともと1つにつながっていた。

さらに、これらの中に書いた「共感や感謝はほしい」とか「元気が出ない」とか「ハードルが上がっている」といった小概念は、実はどれにも共通していて、だから思い浮かんだ時点では、全部がひとかたまりになってしまっていた。

それを、ブログエントリのサイズになるように区切って、三分の一ずつ切り出した。
概念をひと通り書き出してみて、「どこになら切れ目を入れられそうか」を考える。それをアウトライナーでやっていた。

アウトライナーが思考に区切りを入れる


これは、「関連するものをまとめて上位概念を見出していく」という一般的なイメージとしてのアウトライナーではない。(もちろん、ブレイクダウン型のアウトライナーの使い方では、なおさらない)

もつとも、その前段階として近しい者同士を並べ替えただろうから、“付箋ブレスト” に近い形だったとも言えるかもしれない。しかし主観的には、「いささか強引に仕切りを入れた」という感じだった。

それでもできあがりをみてみれば、ちゃんとエントリだ。

これができるというのは、なかなか楽しい。自分でも、まだ「どこに重点をおいて語りたいのか」も判然としない内容に、アウトプット並みの形状を与えられる。
自分の思考活動の深いところとつながれる感じ。

後から考えると、使ったのがアウトライナーでよかった、と思う。


今回の場合、マインドマップのように、ノード間に明確な主従があるわけじゃないし、WBSされた階層構造があるわけでもない。そして「これをみんなの役に立ててもらおう」という、各ノードを部品化できるような「最優先ゴール」があるわけでもなかった。

もやもや程度のものを、他人に見せられるところまで持っていく。もっていける。そこには安心感がある。

考え、まとまり、書き、発表する、でなくてもいい。
考えつつ書いたら、発表の形にまとまっている。そんな早さ。

2015年2月15日
by ikki
0 comments

iki0170|ブログスタイルを模索中。

以前に書いた「ブログを軽く書く」ということのために、あれこれスタイルを変えています。
冒頭のひとことや、
あいさつや名乗り、
そういったことを省略してしまっていますし、
URLスラッグもかなり適当になってきています。
ikiナンバーは一応残していますが。

また、最後には私にとってだけ結論になっていて、他の人にはなんの決め手にもなっていないフレーズがさらっと入っています。
代わりに最後のお別れのあいさつもなくなっています。

インスパイアされた元の記事があったりする場合の参考リンクも控えめです。
こういったことの一つ一つが、更新に対するプレッシャーを下げるための模索です。
まあ、1週間くらいいろいろやってみようと思っています。

2015年2月14日
by ikki
0 comments

iki0169|私の4行日記は、褒め×3と明日への願い

「そうだ、日記、書こう」
と、私はちょいちょい日記を書き始めます。アウトライナーもたまに使います。ということは、毎日は使っていないし、三日坊主になることもあるということです。
今日は、最近のそんな日記書きについての話です。

即効性の日記習慣はあるか?


今回は3日でけっこう満足感がありました。ポイントは2つです。
1. 今日の良かったところを3回褒める。
2. 今日の悔しかったこと(残念だったこと)を、明日の自分に忠告する。

1. 今日の良かったところを3回褒める。

今日のよくできたことうれしかったことを見つけて自分で褒めます。よかった探しです。 #3goodなんて呼ばれ方もしますが、今回の場合は3つ見つけなくても良いです。1つでもいい。
そのかわりそんな1つを3回褒めてあげます。
やったよ! それ、すごいじゃん! 大したもんだよ!

3つ良かったことをを探すのではなく、1ついいことを見つけて、3回ほめる。「よかった」と思う気持ちを実感できるには、3秒くらいかかるから。

2. 今日の悔しかったこと(残念だったこと)を、明日の自分に忠告する。

悪かったところを見つけます。これを明日の自分へのアドバイスとして書きます。この時点ではまだ他人である、「明日の自分」。彼への忠告であり、幸せを願う祈りをつむぐわけです。

「今日もブログを更新できなかった。くやしいな」

という思いを、明日の自分に引き継いでみる。
「やろうと思ってたのに、疲れてるとか言い訳をして、ついつい先延ばしにしてしまったんだ。悔しいよ。お前は気を付けろよな」
と。

そして、次の日になったら、その文を読み返して、その思いやりを受け止めてその日を始めてみる。

「俺はダメだったけど、お前はこんな風になるな」なんて、年上の他人に言われたら「ウザい」以外の何ものでもない。
でも、自分同士なら、言ってくれた人の気持ちが分かるから。ちゃんと響いて感謝できる。

明日の自分に期待することを、そんなことから始めよう。自分への期待を込めた祈りと、それに対する、人類の余った共感能力。

3回ほめて、1つ引き継ぐ。

2015年2月13日
by ikki
0 comments

iki0168|もっと小さなエントリでブログを書くべきかもしれない。

つい、読みごたえやカタルシスや表現の精度を高めたくなって、自分でハードルを上げてしまう。
そして、ブログが何ヶ月もご無沙汰になったり、自分への期待値が自分で高まりすぎて、精神が疲れたりする。

もっと小さいブログを書く。


「まだブログ初期だからこそ、高品質なものを残したい」という発想と、「初期だから、数を書き続けることが大事」という考え方。
両方持っているし、両者がせめぎ合う。

それでも、自分が購読しているぶろブログの皆さんを思い返しながら、「エントリが、毎回ちゃんと『新しいライフハック』に、なってることにこだわらなくていいかも」とも、最近は思うようになっている。
生活のみずみずしい断片だったり、問題提起だけが切り出されたり、模索の過程そのものの記録だといった。

ただ、「お役立ち」にならない文書を楽しんでもらうには、より高度な“芸”が必要なんだろうとも思う。
しかも、「自分らしい」芸が。

私の何を、どんな風にブログに書くか?


それはまだ見付かってはいないのだが。

どうすれば見付かるだろうか? 私らしさとは何だろうか?
まあそれも、「書き続ける中でしか見付からない」ものだろうとは思う。それでも、問題意識を頭の中に置いていなければ、手だけをいくら動かしても見つからない。

疑問に始まり疑問に終わる。
感情を沈静化させるために、書くブログ。感情の整理学。伝えるためではなく、共に何かを考えるための文章。

そんなことを先日アウトライナーアプリを動かしながら思ったのだった。
今回のエントリも、そんなシサクとシコウの経緯なのだ。

2015年2月12日
by ikki
0 comments

iki0167|ブログ更新の間が空いてしまったら

時々、ブログ更新が3ヶ月以上とか、滞ることがある。ネタがないわけではない。「なんか、根を詰めて文字を書き続ける」気分にならなくなる感じ。
そんなことが私にはあるようです。

ブログ更新と私


どうしても、過去ベストの絶頂感を願いすぎて、ハードルを上げてしまう。完璧主義、ということもあるかもしれないし、『集中力あり過ぎ』『自分の中の実感を大切にしたい』という、「超マイブーム型人間」 | iki0163の、負の側面が出ているのかもしれない。

体力とブログ更新


私は通勤電車の中で文章を書くので、疲れてくるとアウトプットの量はばったり減るのです。
単純に元気が出なかったから、というのもあります。
悪循環になって、出口が見えなくなってしまう。

◇元気が出ない
→元気の出る刺激を入れたくなる
→なかなかそんなものない
→時間と元気がますますなくなる
……。

そんな、閉じた回路。

もっと刺激がほしかったら、アウトプットだ


その最中には『今は引き出しにものを詰め込む時期だ』という位置付けで私は考えていましたが、やはりインプットだけに偏った生活では元気が出にくいのも事実のようです。

いざ、書きかけの原稿を取り出してみると、「工夫できる場所を考えること」は楽しかった。

だから、自分で自分を褒めたりなだめすかしたりしながら、アウトプットに意識を向ける。気分の切り替わりや元気を、「何かを読む」ことで受け取ろうとするのをやめていく。

気楽に書くことで得られるものもある。


ただ、気付かないうちに上がっていたハードルは、やはり疲れます。「えいや」のあとに、続けていくには、こちら側にも調整は必要。

品質追求も、それはそれで脳の大事な一機能ではあるのですが、無意識に働かせるのではなく、生産量や生産コスト(体力の消耗……。)との兼ね合いの中で、発揮されるべきなのでしょう。

気楽なまま書けるネタと、それに適したパッケージング。それを頭に留めておく価値はありそうです。

Livefyre Not Displaying on this post