生きる上で浴びせられるたくさんの現実と、それに振り回される脳をさばいていくための方法。
おはようございます。
いっき(@ikkiTime)です。
知的生産の方法や道具は、「発想法」として語られたり工夫されることが多いけど、私はそれをストレス軽減のために転用している場面が多い気がします。
ちょっと、思考の整理がてら紹介いたします。
2015年6月6日
by ikki
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生きる上で浴びせられるたくさんの現実と、それに振り回される脳をさばいていくための方法。
おはようございます。
いっき(@ikkiTime)です。
知的生産の方法や道具は、「発想法」として語られたり工夫されることが多いけど、私はそれをストレス軽減のために転用している場面が多い気がします。
ちょっと、思考の整理がてら紹介いたします。
2015年5月30日
by ikki
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おはようございます。 いっき(@ikkiTime)です。
書く、ってことがスランプです。
まあ、イキブロ止まってる間に、fmj用の記事を書きためたりはしているんですが、決して多作というほどでもなく。
まあ、スランプです。
そうすると、「もっとがんばらなきゃ〜」「もっと元気出てよ〜」となって、精神的に、やっぱり苦しくなってきます。
もともと、ここのところ、仕事もあまり快調なステージではなく、ストレスはくらいやすい状況でもあり。
そんな中で、『いつも楽しく、パワフルに!』というのは……、まあ、やっぱりハードルが高くなりますよね。
ちゃんと、ゆるめること。
ちゃんと楽しむこと。
そういうことがカギになるけど、今まさに悩みが頭の上に乗っかっている時に、楽しいことを考えるのは難しい。
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2015年4月20日
by ikki
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雨が降っていると、保育園までの送りに自転車が使えなくなって、一緒に歩くことになります。
最近、イヤイヤ期が終わりかけで、ようやく娘もまともに “歩いて” くれるようになってきました。
ほんの半年くらい前まで、10m歩いては地面にしゃがみ込んで石や草をいじったり、また10m歩いては「もう、あるけない…、おんぶして」と言い出したり、それはそれはストレスフルな送り迎えでした。
そう考えると、成長しましたね。
そういえば、うんこしっこ言うのも、少し落ち着いてきたような?
とはいえ、その「ただ歩く十分間」というのが、どうしても退屈なのか、ぷらーんぷらーんと、あまりペースが上がりません。
お父さんは、ついつい焦れてきてしまいます。
こういう時に、私が最初に思いつくのは、「はいっ、シャキシャキ歩いてー。イッチニー、イッチニー」みたいな、直接テンションを上げるための言葉。
「遅くなったら、お父さん困っちゃうー」とか「前みたいに、抱っこして、って言わなくなったよねー。さすが年中さん!」みたいなことも、まあ言えていたかもしれない。
私は万事、機能主義的なので、こういうことを最初に思いつくし、無駄口だったら叩かないわけです。
だったんですが……。これが娘には全然ひびく様子がないし、ますますつまらなそうな目になっていく。
気が散っているわけではないけど、とにかくテンションが上がらない。
これは困った、どうするか。
私は雑談が苦手です。「無駄口は叩かない」という性格があると、そうならざるをえないのです。
しかし、すっかりつまらなくなった空気の中で、もう一度元気な気持ちを盛り上げようと思ったら、相手に何かしゃべってもらうのが1番確実だ、という気がしてきました。
沈黙を埋めるために、会話することにします。
で、
「きょう、娘ちゃん、朝ごはん何食べたんだっけー?」
みたいなことを話しかけた。
娘「え? パンとー、ヨーグルトとー」
私「あー、そうだそうだ。パンは茶色と黄色とあったよね。娘ちゃん、どっち食べたの?」
娘「きいろいほう! だってー、私きのう、ちゃいろいほうをたべたから!」
私「そうかそうか。これで、両方とも食べられたってことなのか」
2015年4月18日
by ikki
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春になったから、ということなのか、最近『運転 + 早朝』というようなキーワードで、ブログに来てくれる人が増えてきたみたい。
まだまだ、「うまくなった!」とは言いがたいので、今年もゴールデンウイークが終わったくらいから、7月末くらいまでやってみようと思っている。
ただ、今回記事を読み返してみて、去年とは心境が違ってきているのも感じる。
まがりなりにも実践を続けていて、(隣に乗っている妻さんを怖がらせつつ)運転そのものは、あの夏の2ヶ月の後も続けているわけだ。
乗るのも恐い、という乗り始めの時期ではなくなっていて、今年は基礎の定着を目指した量稽古という意識になると思う。
そうやって、心境や感覚が変わってくるのを感じると、去年(3本とはいえ)記事にまとめておいてよかったと思う。
あの時の心境は、完全には思い出せないと思うから。
できたら、今度はあれを読んだ誰かが、私以上に溢れほとばしる文才で、また何本か、初心者のための記事を書いてくれたら。
世界がまたすこし、やさしくなってくれると思うのだ。
(初心者ドライバーに(笑))
2015年4月17日
by ikki
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ネットではテンションが高いことにメリットがあります。
声のトーンが伝わらないので、多少感激して見せないと、「クールに受け流された」こととの区別を見せられなくなってしまうからです。
また、いざという時には、『上げすぎる』ことで、本音をさらしつつ、表面上は冗談、ということにして重く見せずに何かを伝えることもできます。
ただ、この「刺激の強さ」を求める嗜好性が、リアルでの人間関係力には不利になってくるのじゃないか、という仮説を最近思いついたので、まとめてみます。
これは、次の3冊の本の読書メモでもあります。
2015年4月3日
by ikki
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以前書いた、iki0185(《iki0185|ブログ3年目に毎日更新をまたやってみて得られた感覚》) で、《テンションを上げすぎないように》書くようにしている、ということを書きました。
ちょっと目標やビジョンを持ったりして、「がんばろう」とすると、すぐに気合いが入りすぎてしまう。
でもこれ、けっこう悪影響が出てしまう、と思っている。
記事やネタへの期待感が高くなってしまう。地のテンションが高くなるということは、書く前から興奮状態になるということです。
そうすると、「うん、このネタ書こう! 面白いはず!」と思える基準値が上がってしまうのですよね。
よっぽどおもしろくないと、「おもしろい!」と思えなくなる。
S/N比、という感じ。
ベースラインがわさわさしているグラフだと、信号のピークもかなり強くないと、有意として検知できないというか……。
だから、ついつい「なーんか、ピンと来るネタがないなあ」と思うことになってしまいます。
「1.」と相反するかのようですが、テンションが高まると、恐がりにもなります。
やる気≒テンション≒緊張感≒恐怖(不安)、という感じ。
元気はあるのに、ついついリスクを先送りしたくなるのです。
「1.」の “期待過剰モード” と、この「2.」との相乗効果が生まれると、ネタ帳の中に「書きたいネタが全然ない!」ということになってしまいます。
テンションが高すぎると、文章が出てこなくなる。
ネタ帳に対して、モードがTakeになってしまう。Giverでなく。
これは以前書いていた記事からの引用ですが、↓
少し突つくだけで落ちそうな、熟す寸前の実ばかりを、眼を血走らせて探しているような。
引用元:iki0147|「10万字インプット・5000字アウトプット」を精神のメンテナンス法として考えてみたら | イキブロ
これだと、なかなか腰を据えて文章を考えるモードにはなれない。だから、ネタ帳に対してGiveのモードになって、考えること、そして思いついたことを文字にして足していく過程を楽しむこと、そこに専念すること、というのが大事になってくる。
上の記事にこのフレーズを書いていたことは、今この記事を書くまで忘れていたのですが(笑)、でもこの印象はあったのです。
テンションが上がりそうになる時に、「あっ、やばいぞ」と気付けて、そして踏みとどまれたのは、この時の経験があったからなのかもしれないですね。
2015年4月2日
by ikki
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おや、ずいぶんと荒れたご様子だね。
そうか、失ってしまったのだね。あり得たかもしれない、未来のイメージを。
悲しいね。
今日くらいは自分をいたわってやるといい。
かわいそうだった。かわいそうだった。がんばっているよ。今はそれでいい。
それでも、つい、取り戻したいと思って気が焦ってしまうよね。
でももう本当はわかっている。
失われてしまったものはもう戻ってこない。
世界はその姿を変えてしまった。
きみは、「自分は、弾き出されてしまった」かのように感じているね?
そう。《変わってしまった世界》に合わせて、自分も変わるしかないんだ。
昨日の自分は浮かれていた。まったくの無知のままで。見ようともしないで。
もっと昔の自分は、失敗ばかりの愚か者だった。思い出すのも、苦しいほどに。
今の自分は、またその頃と変わらない。
きっとまたここから始めるしかないんだろうね。
でも、いまは静かにお休み。
焦ったって、体はまだ動かない。あの出来事は、矢となって、心の根に刺さったのだから。そんな衝撃は、すぐには消せはしない。
失うのも、いいものさ。
失うだけ失ったと識れば、
いきりたっている時には出せなかった優しさが、今なら誰かに出せるかもしれない。
今はそうは思えないだろうけど。
こんなのはきっと、はたから見れば、小さなこと、なんだよね。
10年たてば、きっと「あの時から、新しい自分が始まってた」と思えるはずさ。
Inspired by
2015年4月1日
by ikki
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「悪い感情にとらわれた時には、それをまず自分で知る」ことが大事だ、ということはよく言われる。
けど、そういうネガティブな時だけに、自分の客観視をするのではなく、『イケイケに気が駆り立てられたり』、『自分に陶酔できたり』するくらいポジティブな時も、それを「脳のどこかの一時的な作用」として認識しておくべきなんじゃないかと思いついた。
いつかはまた、嫌なことに出会って沈む時もあるわけで、「ポジティブな自分」もまた人生の実相ではないのだから。
その時に、その衝撃をしぶとく受け止められるように。
そして、そんな “一時的”にすぎない絶好調を、「本来の自分」と思い込んで、非現実に追い求めないように。
そして、そのイメージと比較して「そこそこ不調な今日」を、そこまで悪く評価しないように。
そう、こんな今日だって悪くはない。そこそこやれている。
2015年3月31日
by ikki
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ということを、ブログなどの文を書く時に、自覚的に選択している人ってどれくらいいるんだろうか。
逆の人は結構いると思う。なるべく「ひらく」ことを考えるひと、なら。
私は、「分かる」も「時」も「人」も「子供」も「作る」もできるだけ閉じておきたい。場合によっては、「事」や「良い」だって閉じたい。そういう志向性を持っている。
もちろん、これをやってると、“「薔薇」とか「夜露死苦」という漢字を覚えた中学生” みたいになって、あまり美しくない文章になってしまう可能性は、確かにあるのだ。
でも、漢字をなるべく使うようにした方が、読み手が2つの問題を回避しやすくなる、と思って使ってしまう。
2つの問題。
「ここではきものをぬいでください問題」と「このはしわたるべからず問題」だ。
2015年3月26日
by ikki
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更新の間が空いてしまいました。
と言っても、今回はアウトプットをさぼっていたわけではなく、fmjの原稿を2本ほど主催のくらちさんに預けてきました。
(fmjは6月の再起動に向けて準備中なのです)
最近の私の原稿は、アウトライナーで書くことが多くなってきました。
私にとって、アウトライナーで書くことの価値とはなんだろう。
アウトライナーで書くと、文章が早く書ける。ラク。そしてシンプルになりやすい。
私の場合、仮標題の下に、全部のトピック(枝)を一階層で、並列に、ぶら下げていきます。
文章を書くためのアウトライナーの使い方としては、ずいぶんザックリです。
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