タイトルでもう書いてしまっていますが。
私は、対人能力や(人間)関係性の特質が弱点です。ストレングスファインダーとかやっても、はっきりとそれが出る。
(参考:iki0094|「ストレングス・リーダーシップ」を読んだよ。 (ストレングス・ファインダー・テストのコード付きだしね))
人と愛し合い、感謝すること。
だから、「いいこと探し」みたいなことをやっても、他人に感謝を感じるのが苦手で、どうも行き詰まる。そしてまた、そんな自分に「冷たい」と、自己嫌悪を感じたり。
なので、日々のインプットの中で、「身の回りの人に感謝する」というワークがアンテナに入ってくることもときどきありました。
でもなあ、それもさあ……。という反射的反応。
それは、逆ではなかったのか
前提は、逆から始まっているのではないのか。
つまり、「“愛されている”ことを感じること」「“感謝されている”と実感すること」がまずあって、感謝できる
ふと、そんなことを思った。
これだけ(普通に)がんばって生きていたら、『ひとつも感謝されてもいない』ということは、とりあえずないわけです。子育てだってしてるし。俺が指一本動かさなかったら、あいつら、当然困るはずだし。
その点で、インドアでこもりがちだった思春期とは条件が違ってる。
なので、イメージしてみたわけです。
『自分が、この人、この人に、“感謝されてるよ”ってイメージ』を。
そしたら、なんかこう、カァッ と頬が熱くなってくるというか、脳が煮たってくる感覚というか。
体温が上がってくる感じ。「はずかしい」というのとも違う。照れてはいるんだけど、もっとあたたかくて強くつながっている感じ。
なんだこれは。
私は愛されていなかったわけじゃない
これはべつに、今まで私がひとの感謝がうれしくなかったとか、感謝されていなかったというわけではない。
ただそれまでは、受けとめ方は、ずっと気持ちを引き締めていたというか、心をとじていたようなところはあったのかもしれない。
それは、生き残りゲームのような世界観だったのだ。降りかかった局面で、十分に正解であれば “生きている価値あり” と見なされて、もう少しの間この世界にあることをゆるされていられる。クリアー。
世界に対する仮説が間違っていなかったことがわかる。
しかし、このデスゲームは、100mを走り切ると、次の100mが現れてはまた走ってと続く長期戦だから、一度クリア音が鳴ったとしても、気をぬくことは許されないんだよね。
そんな中で私は、「感謝」というものを、別の何かのように置きかえて読んでいたかもしれない。
身近なひとの感謝は、自分の行動が足りてないわけじゃないことやそれが的外れでないことを感じるフィードバックとして。
仕事での人間関係からの感謝は、貢献と能力が、標準や市場などの期待値を上回っていたことの、安心材料として。
極端な言い方をすれば、好感度とか賞賛とか尊敬とか人事考課とかリストラ順位とか、そういうものに置きかえて読んでいたかも、と。
自分への制約をゆるめるための第一歩としてのワーク
そんな状態で、「愛し愛される」といっても、なかなかピンとはこないよね。
そこで、タイトルのワークになるわけです。
次とか落第とか、考えなくてよく、
「あなたは、ただ、感謝されていていい」
と感じるためのワーク。
そんな人間関係の中に、みんなは初めからいたのかなあ
そうしたら、自分が何をしなくても(短期的には、個々にはね)、自分がそこにいるだけで幸せに感じてくれてるということもあるかもしれない。
「ただいてくれるだけでいい」と思われてるかもしれない。
がんばらなくていい。
そんな風に自分をゆるしたり、味わっていても、いいのかも。
もう、自分を追い詰めなくていい
という風に色々考えていたのですけど、こういう「自分のしばり方」をしている人って、べつに私だけじゃないのかも、という気もする。
「あなたも、ただ、感謝されていていい」
「あなたが、ただここにいてくれるだけで、うれしい」
まったくもう。いじっぱりさん。
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