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いっきの「生き方」探求ブログ。ライフハックメモ、カイゼン日記。そして初心なんかの恥ずかしいメッセージ。さあ、人生を再発見しよう。

iki0212|ソードアートオンラインの感想を書いてみる

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オススメされていたので読んでみたライトノベルシリーズ。読んでみて実際おもしろかったので、自分なりの感想をまとまてみようと思う。
16巻ものボリュームとなると、「全体の」紹介というのは無理だ。勢い、1巻が中心になる。私が好きなのが1巻なのでちょうどいいというのもある。そう、1巻の持つ、精神的な現代性が。

まずは(感想のまえに)概略のおおざっぱな紹介

マルチプレイヤーのオンラインRPGというゲームのジャンルがある。
1つの世界に大勢のプレイヤーキャラクターがログインして、話し合いながらクエストを進めていく、ある意味ファンタジーでありながらもっとも現実の「社会」感に近いゲーム。

その最新機種の中で主人公が葛藤を抱えながら進んでいく心的描写が生々しい小説です。
その世界での主人公の冒険を追う形でストーリーは進みます。

で、ここに、もう一つの仕掛けがあります。
ある時を境に、主人公たちから、ゲームクリア以外でのプレイヤーからの脳波のログアウトが禁止されたこと。
ゲーム中でHPが0となりプレイヤーキャラクターが死亡となった場合、プレイヤーの脳にダメージが与えられることで、プレイヤーも死亡することとなったこと。
これらが主人公たちに告げられるわけですね。

作者は、「ゲームの中の感動だって、現実世界での体験に負けず、大きな体験を自分たちにもたらす」ということを伝えたくて、この小説を書いていたようです。

しかし、ある意味でその目論見が入れ子の中では逆に機能している。
主人公にとって、「自分の生き死に」がリアリティを失う。

誰も「見た」ことのない、死に至るテーゼ

確かに、黒幕たるゲームの主催者・管理者から「キャラクターとして死亡したらプレイヤーも死亡する」と告げられた。
しかし、そうして死亡したキャラクターが「いやー、俺、本当に死んじまったよー」と報告してはくれないわけです。
ただ、彼は(または彼女は)HPゲージが0になった時点で、ゲーム世界の視界から、ポリゴンが消滅するだけ。

彼らがゲーム外で同時に死亡したことを、観察した人もいないわけです。

実は、悪質な「ドッキリ」なのかもしれない。それも分からないわけです。
そもそも、主人公たちのもともと住んでいた外界は、法治国家日本(か、それに近い世界)なわけですから、そんなことを本当にくわだてた者がいたとしたら、大量殺人です。

それに死ぬと言われたって、どこか現実感がない。自分の姿だって周りの草木だって、ポリゴンとしてしか認知できないのですし。
しかし、疑ってみたペナルティーが「死」だとなったら、普通の人間はおいそれと「ためしに破ってみる」ことはできない。
こうして、現実感のないまま、言われた規定を守っていくしかない。

私がどこに魅かれたか

この世界は、とても楽しいゲームだったはずです。
レベルを上げてパラメータを伸ばせば、とんでもないスピードでフィールドを走り回ったり、とてつもない距離を跳躍できたりします。
剣技で必殺技をはなてば、画像エフェクト付きで格好よく敵を切り裂けます。
普通なら、自己有能感を味わって気分を充足させられたとしてもおかしくないわけです。

しかし、何十レベルくらいになってスライム(いやこの世界ではアオイノシシか)をいたぶっていればそうかもしれませんが、ゲームクリアを目指して攻略を進めていくのなら、いつでもモンスターとの戦闘力は拮抗していて、そしてクエストのワールドは100階層にもおよぶわけです。その間、毎度毎度の危機において、ワンナウトで自分の命を失う。

それまでの間は、寝てもそこから覚めてもポリゴンの中です。ゲームの中で生活し、ゲームの中で眠り、ログアウトすることもできず毎日毎日プレイしているのなら、気持ちから新鮮さもなくなっていく。

まったく楽しくないゲーム

ならばいっそ、戦うのをやめて、だらだらと過ごすのか。せめて目先の危険からだけでも逃げていようか。
「ログアウト禁止」も実はドッキリか社会実験か何かで、いつかひとりでに終わるかもしれないし。
でも……、それもできません。
その保証もないのですから。

それにこれらは、あくまでも「脳」が知覚する範囲での「世界観」です。外側の身体がいつか衰弱死してしまえば、いま見ているこの世界も終わる。……、そう考えられる。

だから、「クエスト100階層」なんて、確率的にほとんど成功見込みのない任務を振られても、結局逃げることもできない。
やる気の出せないままでも、引きずられるように死と対面していくしかないわけです。
システムとして与えられた選択肢のなかで。

そう、『ファンタジーゲームの世界に入れる』ことが、ここでは実は「魔法のような力で格好よく敵をなぎ倒し、ドラマチックな運命と人間関係の中心に主人公としていられる」ことを意味しないのです。
無力感と、現実感のなさと、恐怖の緊張感。それらは、無味乾燥感や、やらされ感を生む舞台として機能している。

現代性とリアリティ

この記事の最初で、私は精神的な「現代性」と書きました。

  • お金がなければ生きていけない
  • 能力がなければ受け入れてもらえない
  • いい大学を出なければ、いい仕事には就けない

本当かどうかは分からない、いや、疑わしく思える。でも踏み出してみた人の情報が十分に見えていないなら、それを疑って進むことは容易じゃない。
人生の一回性のなかで、失うもののリスクが十分に大きければ、賭けなんてできない。

そう、現代性とリアリティです。
リアリティとはなんでしょう?
社会構造の制約が表現されていること?
悪いやつがずるいことを考えていること?
この物語は「ファンタジー」的な世界観の、それも「ゲーム」のなかで起きているできごとを描写しています。「純文学」「私小説」的な意味合いでの「リアリティ」の枠組みなんてものは、ないといっていい。

にもかかわらず、この本を読んでいるときの読書感と、私達が人生を生きているときに感じる感触は奇妙に似た姿を感じます。

SFというジャンルを読むとき、ときおりそういう感覚を味わう作品に出会います。もちろん、すごく分かりやすくサイバーパンクだったりスペースオペラだったりする作品もあるわけですが。

あとがき

……、というような読み方をするがゆえに私は、「主人公には意思の力ではなく、ルールの逆用によって勝ってほしい」と思ってしまうところがあります。蔵前麻雀か(笑)
おかしいな。若い頃には、そここそが、私の涙腺のツボだったはずなのですが。

 
 
今日もありがとう。

 
いっき(@ikkiTime)でした。


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