以前、こんなことを書きました。
「この腕にプライドを持ってやっていくぜ」というのは、とてもいいと思うので、会計だけ明瞭会計でやってもらえないでしょうか……。
なんて思ったりしました。
ここで言いたかったのは、「値段は外から(あらかじめ)分かるようにしておいてほしい」ということだけで、「マニュアル化しろ」とか「弟子ではなく従業員を雇え」とか言いたかったわけではないし、価格競争や薄利多売してほしいわけでもなかったわけです。
(だから、修理工さんに頼むのは、自分の中ではある程度決まっていたことで、カーコンビニとかは考えていなかったのですが。)
……、ということを書いた後で考えていた時に、ふと思いついたことがあります。
『何を言っているんだ。
困っている人が来たら、力になりたい気持ちのままに、全力で力になる。嫌な奴が来たら、合法的な範囲でこっちもそいつに嫌な対応をできる。それがしたいからこそ、俺は必死で腕を磨いてきたんだ!
その楽しさなしで、機械的にただ仕事をするなんて!』
そんな仮想反論です。
困っている人の助けになることが仕事の楽しさか
それを言われてしまったら、うむむ、とうめくしかない。
その気持ちだったら、私にも分かってしまうからです。
私だって、子供の頃はヒーローになりたかったし、全ての人はヒーローになりたくて大人になったのだと思います。
分からなくはない。
それでも、私がそういった考え方に距離や違和感を感じているとしたら、それはおそらく、私がもう少しシステムよりの性格をしているからなのでしょう。
だからと言って、私が「喜びもやりがいもなく」仕事をしているかというと、そうでもない。
私の仕事の楽しさは?
- 昨日より上達した自分に出会うこと。
- 焦りすぎず、ギリギリのペース配分で仕事を進め、きっちり有限実行できた時。
- みんなと立てた計画が、順調であることを裏付ける報告が、一つ一つ集まって表が埋まっていく。「限りなく、順調だ」
そんな、コントロール感。そして、日常にひそむ法則性を見つけ出すこと。
- 「これ前にも見たぞ。一度 丁寧にテンプレートを作ったら、使いまわせるんじゃないか?」
- 「やっぱり、みんな似たような失敗をするんだな。じゃあ、そこを迂回できるような手順を考えてあげたら、全体の効率が上がっちゃうんじゃないかな?!」
- 「あれ? こっちの仕事のこの部分と、さっきのと同じ構造になっているよな……。ということは、プログラムを組んで自動化すれば……」
というような、仮説を立ててそれを確かめていくこと。
そんなことが、たまらなく好きだ。
作業の実感
まだある。
- 心の持ちようを変えてみたら、集中力があがるんじゃ?
- 今日と昨日の健康状態の差、実はあれが原因じゃない?
そんなことでもOK。
そういった、作業の中の実感を感じられることが大事です。
そんな細かな嬉しさが、『嫌な奴には、こっちもそいつに嫌な対応をできる』といったことよりも、3倍くらい強烈に、日々の駆動力になっている。
そういう意味で、私にとっては、仕事の依頼や報酬というのは、(単位か何かとして)ある程度記号化されている方が集中しやすいし、モチベーションが得やすいのでしょう。
だから、最近は仕事だけではなく、私生活を含めた日常全体に、そんな『作業の中の細かな嬉しさ』を探せないかな、と考えているところです。
“燃えるような恋” とか “サザエさん的笑顔にあふれた家族” ではなくてね。
書斎で好きな本に耽溺する、とかでもなくて……。
難しいのですけどね。
「この困った人を、助けてあげたい」と感じさせてもらうのではなくて。
とはいえ、そんな「内的な実感が好き」という性格に開き直っているわけでもありません。
この性格は、就活面接でも、起業でも、それほど強みにはならないでしょうから、キャリアとか生存戦略を考える時には、行動補正を考えた方がいい、とは思っています。
「成果をあげるのが大好きです」と言う人に比べれば、企業への受けはよくないでしょうし、
「人をを見ると、『この人に私なら何ができるだろう』と考える人」の方が起業には向くでしょう。
ただ、「細かな嬉しさが好き」というのが当たり前でないのと同じくらいには、「困っている人を見たら、助けたいと思うのが当たり前だろ」というのは自明ではないと思うのです。
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