勇気ってものを考える。脳的に、そういう機能はあるのか、と。
勇気には、憧れる。
恐怖は、生存回路として人間に組み込まれた機能だ。
人生は恐怖に包まれている。
だから、私は勇敢であることに、憧れる。
臆病者のスネ夫に対してジャイアンやのび太が勇気をしめす時、そこには何があるのだろうか?
何か対概念として、その恐怖を塗りつぶすようなものは本当にあるのだろうか。あるとしたら、その成分はいったいなんだろう。
少し、考えてみた。
第一の勇気:勝算(見通し + 慣れ)
人が恐怖に逆らって行動できているように見える時、1番大きい機能は見通しが付くことなのではないかと思う。
合理的に大変さを計算できたり、過去に似たようなことを経験したことがあると、初心者ならオロオロする場面で、落ち着いていられたりする。
大事なのは、“燃えるような”勇気というよりは、冷静さに近いものなのではないかと。
つまり、まず恐怖の大きさを積み減らすこと。
第2の勇気:もともとのやる気の大きさ
目標がその人にとって、とても魅力的だったなら、障害が立ちはだかっても、モリモリと乗り越えていくかもしれない。
特に、長期的視点でのメリットは、成人にとっては重要だ。それがイメージできるなら、障害に立ち向かうこと自体は直感的に嫌だ、と感じても、あえてそちらを選んでいける。
第3の勇気:利他のこころ(共感・思いやり)
のび太がピー助を元の居場所に戻したいと思う時、そこにあるのは、「勇気」と言うよりも、「かわいそうなピー助を見たくない」という思いではないだろうか。
大人になるにつれて、こういう気持ちだけで自分の身を危機に投げ込むのは難しくなるのかもしれない。
それでも、勇気ある人の胸の中で燃えているのは、こういう気持ちかもしれない。
第4の勇気:反骨心(カッコ悪い自分になりたくない)
ジャイアンが「ペコだけじゃどうにもならん。おれもいくぜ」という時、そこにあるのは「怒り」という成分に近い気がする。
自分の弱さへの怒り。
希望あふれるイメージへの、道をふさぐものへの怒り。
暴力や恐怖などで、自分を屈服させようとする者への怒り。
自分を無様にさせようという、運命なんかに負けたくない。
人間の想いの力を見せてやる。
それは意地かもしれないけど、そんな気持ちが、恐怖に逆らって行動する力になるかもしれない。
まとめ
そういった、色々な勇気の成分を持ち寄って重ね合わせる時、それらが混ざり合うだけでなく、心強さみたいなものが、そこに加わるかもしれない。
また、そこへ向けての第一歩がいくつか踏み出せれば、ワクワクした行動的のモードに入れるかもしれない。
もし、『勇気そのもの』というのがなく、そういった成分の混合ベクトルをがないのだとしたら、恐れを感じた時の我々の戦略も変わってくる。
勇気がわいてくるのを待つのではなく、また、勇気が自分にあってくれたらと願うのでもなく。
見るべきビジョンを見る。
すでにある勝算を確認する。
そういったことなのかもしれない。よね。
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