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いっきの「生き方」探求ブログ。ライフハックメモ、カイゼン日記。そして初心なんかの恥ずかしいメッセージ。さあ、人生を再発見しよう。

iki0231|凹んだ感情の補償

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子供を育てていると、よく子供が感情の補償を求めてくる場面に遭遇します。

たとえば、そろそろ宿題をやらないと時間帯的にまずいのに、テレビを見ている。何回か、「そろそろやろうよ。まずいよ」ということを伝えているのに、まだズルズル見ている。

静かに言っても、意識の大勢に染み込まないのかな、と、段々語調が強くなる。
声が荒ららいだり、言葉が皮肉っぽくなったりする。
すると、
「ああ、やろうと思ってたけど、今のでやる気がなくなった!」とか、
「そうやって、怖い声で言われるから、ますます やる気がなくなるー!」
なんて反応が返ってくる。(「じゃあ、どうすりゃいいんだよ?」)

でも、言わないで待ってたら、やっぱりやらないわけです。“やろうと思ってた”、わけがない。
まあ、やつあたりです。
「“遊ぶのを切り上げないといけない”,“宿題やるなんて、いかにも疲れそう”,“命令されるの、ムカつく”。だから、この凹んだ分の感情を、何かでプラスにしてくれるまでは、がんばるなんてできない」
ということですね。

でも、客観的に見たら、疲れると分かっていることを、「いい気分 100%」で始められることなんて、人間には滅多にないわけです。だから、正論としては『嫌々のままでいいから、とりあえず 1問目をやれ』ということになるはずです。
でも、それを拒否してくる。

その、嫌な気分を補償する「何か」が、『アイスを1本、特別に食べて良い』ぐらいならまだいいわけですが、『おもちゃを一つ買う』とかになると、まず提案できないし、『アイス』にしたって、それを食べてる間に、別の気の散ることが目に入ってしまったら、あげ損になってしまいます。また、アイスを食べたからと言って、ちゃんと気分が盛り上がるとも限りません。

真夜中になってから泣きをみないないですむように監督してやっている親の立場からすると、「駄々っ子の我儘にくれてやるものなど、寸土たりもともないわ!」という気分になってきます。

下の子などは、さらに、遊んでいるときに宿題を持ちかけると、
「じゃあ、好きな録画番組を見ながらなら、やれるよ、つけていい?」
なんてことを言ってきたりもします。
宿題をやることの嫌な気分を、テレビを見ることの楽しさで塗りつぶしながらなら、やれそうな気がするのでしょう。

しかし、これでは集中力がそだたない。
というか、現実問題として、画面見ながらじゃ進まないよね。横で監督する、親の時間も何倍も奪う。家族間の空気のイライラも、ますます高まる。

彼らは、根本的なところで、交渉する相手を間違っていますよね。
彼らが宿題をするのは彼ら自身の課題だから、彼らがやることを親が代行することはできないし、やってもらうことで親に有利になっているわけでもない。

だから、取引として見れば、相手に「何かしてあげる」わけではないから、子どもの側がバーターで要求できるものは何もない。

でも、個人の心象としては、気分が外的影響でへこんだら(へこまされてしまったら)、まずはその気分を補填しないと、やる気なんて出なない。
ただでさえ、「何かをがんばること」は、疲れそうで、やる気を出しにくいんだから。

これは案外、おとなでも、心当たりはある。

自分に置き換えて考えてみると


ここまで、子育ての話題として、人の性質を見ていたわけですが、実際にはこれは大人にも当てはまるわけですね。

私は、怖い仕事をするときには、甘いものを食べながらやるし、簡単な作業なのに、いまいち脳がピリッとしないときには、糖分を補給しながらやっていたりしますから。ヾ(-_-;)

もし、これを大人の課題として見た場合、どんな教訓をここから得るか?

これは、他者に向けてはいけない感情なんだ、という感情は、きっちりと自分で処理する。
その一方で、全然関係ない事象による凹みであっても、やる気がでないときは、さっさとスイーツでもなんでもいいから、手当てをして、回復を早める。

といったところでしょうかね。


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