STAPの問題が終わって思うこと
「終わった」と言っていいのか、わからないけど。
もっとセンセーショナルなニュースはどんどん出てきて、人の話題には上らなくなってきた。
私にとっては、あの事件の後半の収拾過程は独特の印象を持っていた。
私としては、「うまい幕引きだったな」と思う。
が、それだとしても、あの事件進展中の、緊張感・重苦しさはかなりのものだった。
宗教戦争はコストが高くつく
問題の後半は、宗教戦争さながらの価値観闘争になっていた感じがして、見ていてとても疲れた。
科学支持派も、権威・権力反対派も、自分の主義信条を譲るわけにいかなかった。
それだけに、あの『結末付け』たる検証作業は、すごく迂遠なルートを通ることになるしかなかった。
STAPの細胞や現象はあったのか、あの論文に不備があったとしたら、それはどこにどのようなもので、その結果論文からは何が言えなくなるのか。逆に、論文にはなりきらない、独自の技術や秘密のレシピがあって、本人なら再現できる可能性はあったのか。
そういった外濠から、というよりも『外濠だけを』、的確に証明した。
「誰が何のために(なぜ)やった」というところの追求や、「悪いのは誰か」というのが第一目的と取られないように、上の方がすごく配慮して、冷却期間もたっぷりとりながら、少しずつ進めていた。
片方に肩入れすれば早かっただろうし、「あれは、パフォーマンスだった」とか、「税金の無駄だ」とか言う人もいるけど、あれ以外の形での幕引きは無理だったろうとも思う。
日本でこれからも万人に対する民主主義をしていくということは。
今回のエントリでは、「私の意見が、あの研究と研究グループに対して、支持か反対か」ということを表明するのは、さして重要ではない。
日本で生活するということは、もうこういうことだし、日本で民主主義をやるというのは、ああいうことなのだ。
日本はそういうところにコストのかかる国だし、そういうコストがかかるのだ、ということです。
なんというか、そういうめんどくささが、この国で民主主義をやっていくということなのかな、と思った。
バカなど放っておいて、やるべきことを早く進めるべきだった、という人もいるだろう。
だが、直接的な論破が説得にならない以上、冷却期間を置くしかないのだ。
私の中に、2人の自分がいる。
ここで、2種類の『私』が現れてくる。
1人は、単一の正義を貫き、できるならば世界を純化した形で生きていたいと願う自分。
もう1人は、世界に単一目的を設定し、単一法則性を知ることで、人々すべてを統べたい、と思う自分だ。
この2人は明らかに矛盾する。
ただ、同時にすごく似てもいる。「ゴールを1つにしよう」とするか、「スタートを1つにしようとするか」ということだから。
(どちらにせよ、無制限に発動させれば、他所様には迷惑なこと、この上ない)
今回の話題の場合、「後者の自分にとって『世界はすごく不都合に満ちている』という感覚」を受けたわけだ。
それを飲み込みつつ立ち止まらない、のが大人ということだろうけど。
(もちろん、前者の私にとっても、「自分の考える正義」に対抗する勢力が一定数いることを感じたわけだから、愉快ではなかったわけだけどね。)
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