私の中で、どうしてもぬぐえない、物語への傾向がある。ハッピーエンドでない物語への評価が数段低くなる。というか、あらかじめわかってるなら読む気になれないレベル。
「東京バビロン」というマンガを中学生くらいのころに読んでいて、その最終巻くらいで唐突にバッドがやってきたとき、それがうまく消化できなかったことがある。それを現実と思えずに、むしろそっちが二次創作で、どこかイデアな世界に本当の最終巻があるような気がしていたものだった。
無理やりハッピーにすることを、蛇足、と呼ぶとして、そんなバッドエンドを逆蛇足と呼んだとしたら、蛇足と逆蛇足と、どちらがより罪深いのだろう。
そんなこんなで、坂口博信とか、CLAMPとか、麻枝准とか、大嫌いだった時期がある。
(虚淵玄には、なるべく惹き寄せられないように、自己抑制をかけている)
いや、彼ら個人がどうだということではないのだ。
私は、
「ローマの休日」も「マディソン郡の橋」も、「アルジャーノンに花束を」も「グリーンマイル」も楽しめなかったわけで、そこまでいくのなら、受け手たる私の方の問題なのだ。
もちろん、現実には、うまくいくことばかりなわけはないことは分かっている。
でも、そこは物語の中なのですよ。ということは、その世界は全知全能の神によって統べられているのだ。「作者」という最強の神によって。
もちろん、そこまでに積み上げた伏線やリアリティの関係で、そこに無理矢理なハッピーエンドをつぎはぎすることが、ほぼ不可能な場合というのはある。それをすると、一貫性が粉々になって、そこまでのストーリーも、エンディングも、すべてがダメになってしまうケースというのも。
しかし、その場合であっても、間違いなく 「だから、ここは悲劇でいいよね」と決断した主体がいたはずなのだ。あまりにも無慈悲ではないか。
命をすくう力があるのに救わない。努力にむくいる力があるのに、むくいない。
むしろ、積極的に、
「ねっ、ねっ、この子、かわいそうでしょう? 涙が出ちゃうでしょう〜?!」
と、差し出そうとすら、したかもしれないのだ。
そんな “顔” が、どうしても見えてしまうのだ。
それが、陶酔の表情なのか、管理者顔なのか、それは色々だと思うけど。
さらにタチの悪いことに、こういう物語は、「それを好きな人」というのも(やや差別的なイメージで)私に想起させてしまう。
「な、な、この悲しい話、泣けるよなー」
「この話で感動しない奴なんて、非国民だぜ」
と、なれなれしく肩を組んできそうな人間を。
現実世界の他人の悲劇なんてのは、「不愉快な事件が、また一つ」以上のものではないはずだ。それを肴に、共感の連帯を深めたり、自分の鬱屈を癒したりなんてのは、図々しいのだ。
私は、そこに鉄拳を食らわしたい。
ずっと、「『マッチ売りの少女』の絵本に正拳を叩き込みたい」、という、そんな気持ちで物語に向かい会ってきたのだから。
「不幸なものが、不幸なまま終わるのなら、それは物理現象にすぎないではないか!」と思う自分がいる。
念力がプログラムに勝っちゃったりしたら、それはそれで興ざめだけど。
『ローマの休日』なら、あのあとに男性の方がビジネスで成功して巨万の富を築き、爵位も得て、堂々とプロポーズに成功するところまでを描けばいいではないか。
そんな感じ方を、私はする。
下りおちる難局なのは、誰の目にも明らか……。だけどそれでも、と、人の意思でそれにあらがう。
そんな叛逆の物語を読みたいのだ。
私はそれを、蛇足とは思わない。
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