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いっきの「生き方」探求ブログ。ライフハックメモ、カイゼン日記。そして初心なんかの恥ずかしいメッセージ。さあ、人生を再発見しよう。

iki0229|人生を考える力

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前回の続き。

この方針に対する、想定される一つの強敵は、アクティブラーニングだ。
主体的な学びの姿勢。
学ぶ対象と学び方を主体が決められる。

先日の書き方の場合、その人その人の課題は、どこか “降ってくる” ようなイメージを前提としていたかもしれないからだ。
受験せよとか、就職せよとか。

個人は、それを「どう攻略するか」を、考えるだけ。

それでいいのか、と。

これは難しい。

何かを与える時には、いつも悩みがある。


そういえば、こどもに最初に「戦隊モノ」を見せる時には、小さいけど、結構深刻な迷いがあった。
「勧善懲悪の心理スキームを強度に刷り込んでしまうのではないか」と。

一つ、道具を与えるとき。
一つ、課題に挑ませるとき。
一つ、「いいやり方」を教えるとき。

どんなに、「魚をあたえるのではなく、」という考え方を先に見据えていたって、迷う。
原罪がそこにある。

その一方で、何も材料を持たずに考えることはできない、という側面もある。
知識がなければ考えられないのだし。

それに、まったく理解できないようなものは、課題としてすら取り込むことができないという制約もある。
自分の理解を超えることが学びにつながるのは、ほんのわずかな幅なのではないか?

能力の110%。
理解できない要素が少しあって、「なんだろう? これ」と思う。
能力の120%。
いままでの理解を超越した何かを感じてモヤモヤする。結果、それについて考え続ける。

それくらいがやっとなのではないかと。

だから、手持ちの単純な理解や知識を組み合わせて、深みを目指すしかない。そして、初めは限りなくゼロなのだ。
教わったり、つめ込まれたり、そんな時期をとばすことはできない。

そう思って、今日「一つ」与える恐怖を乗り越える。

あるいは、主体性の姿勢というのも、年齢別で考えればいいのかもしれない。
小学生で2割、
中学生で3割
高校生で6割、とか。

いつかは、親の手を離れられる能力を持ってもらう。
でも、それは親から与えられた能力の土台の上にしか乗らない、なんてね。

おわりに


ああ、そうだ。
降ってくる「課題らしきもの」から、身をかわしたり、やらないことにしても落ちついていられる技術、みたいなものは必要か?

こうして、また色々考える。


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