2015年11月28日に開催した、「らしたさんを囲む会」
(参考記事→《iki0206|らしたさんを囲む会、開催しました!(当日タグは #2015らした会 )》)
そこで出た、びっくり話題の 1つに、
《今年は紙の手帳は使ってません》
というのがありました。
その話題にはもう少し続きがありました。
「ほぼ日カズンを使ってたころは、左上をタスクリストに、その右側(右上)をそのメモに、下側半分はフリースペースとして使っていたわけです。
で、その左上と右上の役割を、Evernoteのデイリータスクリスト(DTL)に持たせるかたちで今年の運用としてみたのですが、そうしたら読書メモの量がめっきり減りました。」
これは、ある程度以上ノートや発見メモに関心のある層にとっては、共感するとともに、聞き流せない話題です。
むむむ。倉下さんでもそういうことは起きるわけか。
分けると機能は一緒にはならない
私は一応その場では、
「re-collectionやモレスキンラージはその代替にはならなかったのですか?」と切り込んではみましたが、そこはやはり難しい感覚のようです。
単純化して考えれば、「必要であるならば、他のノートに書けるのではないか?」と思うことはできるのですが、そこはそうはならなくて、「開きっぱなしになっている、1日1ページの紙の余白」には勝てなかった、と。
他にもたとえば、「ほぼ日タスクリストをEvernoteに代替させる」ということであれは、そのノートのリストクローズド線の下に空行をたくさん入れて、下の方にメモすることにしたとしても、よかったはずなんですよね。
でも、そうならない。
わざわざメモを書く
おそらく、「これはおもしろい、ブログで書評記事を書こう」という本のメモは、何かで取っていたのでしょう。けど、そうでないような、
《今日から〇〇〇〇という本を読み始める。15分で〇〇ページ。ちょっとタイトルから予想したものとは違ったけどまあまあいい感じ。語彙が難しくて読むのに時間はかかりそう》
という程度の日常記録を書くのには、個別のノートをひっぱり出して書きつける、というのは感触が「合わなかった」のでしょう。
机の上に大きな紙が広げっぱなしになっている安心感
前述は、倉下さんの脳内に属することなので、あくまで推測に過ぎないわけですけど。
私についていえば、《iki0138|人生を変える。自分を活かす! 日記の書き方(ツール編3:アナログノート)》のとき、大判のメモパッドを机の上に置いていた時に、その逆の思いを感じていたのを、この記事を書きながら思い出して。
広い紙が、机の上にあるのはいい。
ふつうに使う用途以上の余白があると、さらにいい。
ちょっとした脱線や思いつきを、ひとまず書き落とすときに、紙を無駄にする罪悪感や抵抗感を弱めることができる。
「これは、書き “残す” ほどのことか? 活用に向かう考えか?」という判断をしなくてよくなる。とりあえず文字にして、外観をあたえることができる。
とは言っても、「余白を用意するために、本来の用途以上の面積を、いつも携帯する・あるいは有限な机の上に広げておく」というのは無理なので、どうしてもノートやメモパッドの大きさには限度が来るのですけどね。
私には、情報カードへの一本化は、荷が勝っている
で、これはさらに余談めくけど、私は発見の手帳を情報カードにする、というのはどうも定着しない。
どうしても、ミニ論文なりになりそうな、価値ある思いつきでないと、書くのがもったいなく感じてしまう。
どんどん書いて、抜いて捨てればいいのかもしれないけど、第一書き出し口はやはりノートなのかな、という気がする。
後記
前回の記事もそうなのだけど、今回も『らしたさんを囲む会』から派生した内容の記事です。
ただ、ここに書いているのは「会の雰囲気」「会で話し合われた内容」かと言われると、ちょっと微妙ではあるのでエントリを分けています。
しかし、これが“勝手読み”なのだとしても、「一つ聞いたら、十 気付けてしまう」場というのは、やはり楽しかったですね。
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