読んだのは、すこしまえ。
すごく多面的に、味わいが流れ込んでくる本だった。
主として回想シーンでではあるが、中学生のピュアな感情、という中二的な空気によるライトノベル的な駆動力もありつつ、リアリティーとメッセージ性もある。こういうのは、やっぱりSFの畑は強い。
同時に、現在の主人公は職務上の権限を使って非合法の薬物を手に入れたり、それに耽るという、社会と日常にまみれた、“安定したにごり” の空気もある。
作品の心象風景として、両方を備えている。そして、そのどちらにも私は強く共振できる。
■
それだけ魅力的な主人公がいる一方で、ストーリーの中で主人公の彼女たちと敵対する『生府』の思想にも、私は共鳴するのだ。
バイクとタバコは人生のすべての局面において、たぶん私は馬鹿にしてきたし、宝くじなどの統計学的にメリットのありえないものに対する嗜好も、基本的には見下しながら生きている。(そうでない瞬間も、ポイントポイントではあった)
だから、ひたすら健全で合理的で生産性の高い生き方を推奨する、かの体制の思想は、私と親和性が高い。その押し付けがましさや、のがれにくさを置くとすれば。
政治思想として、私は生府に近しいのに、感情としては主人公と親和性が高いという不思議。
そんな緊張感をかかえながら、ゾクゾクと、話を読み進められる。
〜 ここからはネタバレありだよ 〜
物語の中から、特定の人物や派閥の思想を取り出して論じることの無粋を自分に許すなら__それをテーマについて語ることと、今回は信じよう__、私は「生存や社会適応に不利なクセが、自分の脳や本能にあるのなら、それを攻略したい」という指向性を持っている。
人類が現状で持つ科学的な知見の範囲では、それは、
「忘れないようにメモをする。未来のことならリマインダーをセットする」
「やることが多すぎると感じるときには、書き出して、並べる」
といったことしかできないので、それしかやらないだけです。私は。
たぶん。
たぶん、安全に脳をチューンできる生体工学的な技術があるのなら、行動経済学的ひずみをなおそうとするだろうし、全人類的にやれるのなら、『ゲーム理論』的なジレンマや、 “原始時代のなごり” 的な行動パターンの不条理を一度人類から取り払いたい、と思うだろう。
(原始時代の〜 というのは、見知らぬ他者への恐怖や嫌悪、カロリーの先食いなんかですね)
そんな功利心や、そんな公共心は、持っているから。大なり小なり。
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作品世界的には、「それをやったら、ディストピアだ!」「人間の自我がなくなる!」というトーンがあるのだけど、たぶんそれは当たっていない。
「社会システムが円滑に回るように、人類をチューン」するというのは、意欲や欲望を “0” にすることではないだろうし、葛藤だけが自我でもないと思う。
「完全なフロー状態の中で、自分を俯瞰している」ような自意識はたぶん残るだろう。
ただまあ、そこから世代が一つまわって、生まれてから一度も葛藤したことのない世代に、「自我」という言葉の感覚を伝えるのは、確かに大変だろうとは思うけど。
それでいて、やはりヒロインに感情移入する
しかし、それでいて、感情的にはやっぱりヒロインに感情移入する。
その葛藤や居場所のなさ。
そこで見つかる、得がたい仲間との交歓。
極端なときには、破滅的なまでの、行き場をふさがれた攻撃性。
そんな自暴自棄な感情から、逆に、読んでいて明日を生きる元気をもらえてしまうという不思議。
体制的な嗜好を持ちつつ、「私が共感されることはない」という渇望を抱えて生きる、それが私の今生の生なのかもしれないね。
あなたは、どうだろう?
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