ポートフォリオを維持する。
日々を回す。
あるのはそれぞれの場所における進化と全体のバランスの変化だけ。
そんな考え方になってきて、ようやく「回し続けるだけ」「その場にとどまり続けるだけ」ということを前向きにとらえるようになってきた。
おはようございます。
いっき(@ikkiTime)です。
若い頃。
以前はもっとずっと直線的な人生観を持っていたと思う。
成り上がりだったり、成長だったり、そういう指向性のある進化。
「上の世界に行きたい」「下の生き方に堕ちたくない」という感覚があった。
そんな気分を支えていたのが、1つの根元的なイメージだったと思う。
なんというか、世界とか人間に、階層があるようなイメージ。
一流の人はなぜ○○なのか幻想
そんなかつての思いの核になってしまっていたのが、「一流の人と二流の人」幻想だ。
Amazon.co.jpを検索: 一流の人は
↑ 。すでに、ネタとしてすら消費され始めている検索キーではあるけれど。
それでも、そのキーワードのキャッチとしての効果は私には残っているし、その潜在的なイメージは根強い。
一流の人とそれ以外の人を分ける小さな差がどこかにあって、一流の人は放っておいてもどんどんお金が集まってきて、趣味も多彩で教養も深く、運も掴み、交友関係にも恵まれていて……、というイメージだ。
新入社員が、会社の中を見上げながめている世界観が、その芽になっているのかもしれない。
そう見えることばかりではないことに気づく、人生の中年期
社会問題が起きると、それを人間的な徳の問題としてとらえたいのか、新聞がその分野の専門家でもない著名人に意見を聞きにいくことがある。
経済でも、外交でも、医療でも、科学でも。部分だけを見た素直な感情が危険になる分野でも、それをする。
すると、自分の仕事領域では大きな成果を上げ、尊敬に値する哲学を持っている人ですら、政治の批評をすると急に底の浅さを露呈する場面に出くわすようになる。
また、事業で一定の成功した人が、私生活ではどうにも落ち着かない人だったりすることも、多々目にすることになる。
そうしているうちに、結局、人は部分部分の集合でしかないんだな、という感覚になってきた。
スポーツ漫画の「異分野から転身してきた新人が、その特技や発想を生かして、旋風を巻き起こす」ということはなくて、その分野の技術は、やっぱりその分野の技術でしかないのだ。
だから、人生いろいろ
それに単純に会社員生活をしていても、同僚には子供のいる人もいればいない人もいるし、趣味のものすごく多い人もいれば少ない人もいて、生活の時間配分が全然ちがうということになると、同じゲームを競っても仕方がないという気持ちになってくる。
ブログを書いている人もいれば書いてない人もいて、ライフハックを知っている人もいればいない人もいて、それでも、ネットを介して、そういう人同士つながって居場所を作れるようになったりする。
(同じ家族であるところの妻ですら、「ライフハック」の話題ではつながっていない。)
人生のイメージが変わる
そうなると、「夢」とか「人生の意味」のイメージも変化するしかない。
「会社での役割」「子育て」「ブログ」……。そういった、個々の要素のブレンドと比率こそが、その人の意味になってきて、「何を達成したか」「どこまで到達したか」ではなくなってくる。
それぞれの世界で、充実と貢献があった上で、有限な時間リソースをどこにどれだけ配分していて、そのブレンド比率がどうなのか。
それに、楽しみのセンスも、大人になっても意外と変わってこなかったことにも気づく。
確かに、コーヒーもビールもおいしく飲めるようになったけど、甘いものもいまだに好きだ。
娯楽や芸能になると、「いまだに少年マンガが好き」「“今” は音楽はBUMP OF CHICKENだけ」「なぜか村上春樹が楽しめない」……、といった傾向は、時間がたっても段々変わらなくなってきて、『まだ見ぬ世界』なんてのは、そうそうあるわけでもなさそうであることにも気がついた。
だから、人生の価値は、前に向かうことにあるわけではなくて、維持の中にある。
それは「奪われたものを取り返せる見込みもなくなる」わけでもあるし「過剰な先行投資を回収できる見込みがなくなる」わけでもあるわけで、結構な寂しさや喪失感はある。
それでも間違いなく楽になれる部分があるんだ。
今日もありがとう。
ではまた、どこかで。
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