更新の間が空いてしまいました。
と言っても、今回はアウトプットをさぼっていたわけではなく、fmjの原稿を2本ほど主催のくらちさんに預けてきました。
(fmjは6月の再起動に向けて準備中なのです)
最近の私の原稿は、アウトライナーで書くことが多くなってきました。
私にとって、アウトライナーで書くことの価値とはなんだろう。
アウトライナーは文章が早く書ける、とは
アウトライナーで書くと、文章が早く書ける。ラク。そしてシンプルになりやすい。
私の場合、仮標題の下に、全部のトピック(枝)を一階層で、並列に、ぶら下げていきます。
文章を書くためのアウトライナーの使い方としては、ずいぶんザックリです。
1つ1つのトピックは、長い時は長くて、句点(「。」)が3つくらい入っていることもありますし、また、あらすじを先に中位見出しとして置いておくこともなく、頭から書き出してしまいますし。
それでもアウトライナーを使った書き方が私にとって心地良いのは、このツールが「今は書き出しの時期。推敲のタイミングじゃないよ」と語りかけてくれるからでしょう。
私の中のもう一方の脳、「感じ、整え、違和感を刈り込もうとする」機能をうまく眠らせてくれる。
これが文章を書くことを精神的に楽にしてくれるし、そうなると文章に向かう頻度や時間総量を増やしてくれるのです。
調子がわるいときも、わるいなりに書く。
文章は引き算で良くなるものだけれど、
文というのは前の文章の余韻を引き継いで始まり、次の文章へ展開させる役割を負って配置されます。
一文の中でも、一単語一単語が、波紋を残していく。極端なことを言えば、句読点1つでもニュアンスが変わる。
文の中に読点を置けば、次の文節の印象が強くなるし、句点を一回置けば、その前の述語の印象が強くなる。
多義的な単語を使うときは、二次ニュアンスが伝わっていい場面かどうかを、うじうじ考えてしまう。
伝わってはいけない場面なら、「伝わってしまう恐れはないのか」と、何度も心に耳を澄ますことになる。
例えば「上品」って言葉なら、「まとまってるけどパワーが足りない」とか「取り澄ましていてイヤミな」とか、そういうニュアンスを取りのぞける限り何度でも取りのぞく。
そういうことを考えてしまう、私の頭の中で育つ文章は、芽が出た瞬間から剪定の風が吹き荒れる中で育たなければいけない。そんな難しさがある。
そこで、芽が出る端から、ガラスのケースに入れて積み重ね、風から守ってやる。
そうすることで、文章が育ちやすくなる。
では、「推敲は後でまとめてやる」ことにすると、後ですごく大変になるかというと、これはそうでもなかった。
意外とすんなりきれいにつながる。
アウトライナーで文章を書くと、文章がスッキリ締まる、かもしれない。
アウトライナーでは(といっても設定によるのだけど)長い文を書いていても、次の文に移ったら、ほとんどの部分は隠れてしまう。スマートフォンの画面の横幅も狭いし。
でも、文章って、意外と『見出し』だけ並べても意味は伝わる。
そんな、「3行でまとめる」感覚を、肯定的にとらえてみる。構成要素を箇条書きのように次々と叩きつける時の、文と文の間隙に、「書き手の熱量」を読みとってもらうような表現だって考えられる。
もちろん表現が美しい方が心にスッと入ってくるし、説明や例示も詳しい方が、いろんな背景を持った人に読まれる場合には、正しく伝わりやすくなる。
でも、それが必ずなければ伝わらないか、と言ったらそうでもないのかもしれない、と思うようになった。
だから「早く書ける」と言う中には、「全体が短くなる」ということによる結果もあるのかもしれない。
(左) これくらい長い文を打っていても、 (右) フォーカスが次の文に合うと、シュッと縮んでこんな感じ。 (Cloud Outliner in iPhone6) |
参考:スマートフォンのアウトライナーで次の文に移ったら、前の文が隠れてしまう様子 |
この感覚も、肯定的にとらえてみたい。
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