もちろん、みんな元気で笑顔がいい。そうに決まっている。ですが……。
おはようございます。
いっき(@ikkiTime)です。
私はブログを書いています。ですので、誰かに、何かの思いを届けようと考えながら書くことができます。
(それを何人が読んでくれるのかは、また別の話です)
テレビで、歌手の人にアナウンサーが質問するとする。
「今から、歌っていただくわけですが、どんな思いで、歌われますか?」
そうすると、どうしてもそれに対する回答は、
「最近は、色々悲しい出来事も多くて、気分が落ち込んでいる人も多いと思うので、勇気や元気を届けられたらと思います」
と、回答せざるを得ないと思う。
落ち込んでいる人を元気づけることができるだろうか
ただ、私はどうしても、元気な歌や前向きな歌に力を込めて、そのメッセージで人を元気づけることができるのだろうかという疑問を感じてしまうのです。
これは歌い手の力量の問題とか、音楽の力などまやかしだ偽善だ、ということではなくて。
感情や気分というのは、「生体反応」の側面がどうしてもあると思う。
暗くなる、落ち込む、悲しい、ということも、生体や個体の維持に必要な反応だったり、サイクルだったりするのではないかということです。
例えば、
- あまりに公算の少ないチャレンジに駆り立てられても、そこでエネルギーわ無駄にするよりは、そんな場面はやり過ごして、次にもっといい場面がきた時にエネルギーを爆発させようと、脳が気力の放出をセーブした結果、無気力になる
- あまりに不都合な出来事に面した時、それを二度と忘れず、似た局面に次に出会った時に確実にそれを避けられるように、強い信号を脳内に走らせる回路がある
- 神経は緊張と弛緩を繰り返す。ずっと緊張し続けることはできない。
めいっぱい緊張した後は、補給のために弛緩せざるを得ない - 生きるか死ぬかの場面では、闘争か逃走かを選ばなければならない、というプログラムがある。
だから、危機的な場面では当然気持ちは浮つく。気もそぞろになる
……というようなことは、当然あるのだと思います。
その状態で、外側からエネルギーを注いでも、元気が出るということにはなかなかならないのではないかと……。
「十分に達成可能な手法を新しく見つけてくる」とか、「これとこれは、最もまずく進んでも被害はこれくらいだから、そこまで恐れなくてもいいよ」、とか「個別・具体的な」対策が必要になるわけです。
では、落ち込んだ人に届ける意味のあるメッセージはあるのかな?
心が傷を受けた、となったら、癒えるのには時間がかかる。
十分に正しく向き合って、元気を出したい自分とも、傷付けた出来事とも、うずくまりたい自分とも和解する。
その過程で、寄り添ってくれる人や、別のところから舞い込んでくれるハッピーがあってくれれば、なおよいけど。
だから、必要なのは、平静であり、時間であり、理性なのだ、とそんな風に考えています。
熱いメッセージや明るい口調は、時に毒にすらなるのではないか、と。
では、どんなメッセージを自分は放ちたいのか?
ブログも、不特定多数に向けて語る媒体である以上、明るくて、テンションの上がるものの方が、人気の出る傾向は間違いなくあると思う。
でも、明るいエントリばかりを無理に作る必要はない。
暗い時には、せっかくなのだから、暗いことを書いておいたらいい。そこにはそこで、需要はある。
私は、そこの需要も忘れないような語り手になってみようか、なんて考えている。
悲しみは終わらせたい。
でも、その方法は、元気な曲を聞いて踊ることではないのかもしれないのだ。
まあ、「感動」はしてほしいし、「笑い」や「圧巻のエネルギー」は、届けたいと思うのですけどね。
今日もありがとう。
ではまた、どこかで。
→ 他の記事も読んでみる(ランダムにジャンプします)。
→ イキブロ | いっきの「生き方」探求ブログ | Top へ。